2009年5月6日 200年企業 -成長と持続の条件 日経新聞掲載

2009年5月 7日

リスクの海 機敏にカジ福一漁業「遠洋」「直販」波乗るimg04449.gif
-----日経新聞より全文-------
静岡県焼津港を拠点に代々、漁業を営む福一漁業(焼津市)は操業が江戸時代の宝永年間(一七〇四-一七一〇年)にさかのぼる。一説には先祖は戦国大名の武田氏が結成した水軍の一員とされる。海のつながりは歴史的に深い。
明治時代の末まで漁といえば櫓(ろ)こぎ船。現在は巻き網漁船を5隻、マグロはえ縄を三隻所有し、国内で有数の遠洋漁業会社になった。新しい技術を率先して採り入れ、環境の変化に先手を打ってきた。
一九〇八(明治四十一)年、十代目・近藤市右衛門氏のとき、内燃機関による動力船を建造した。「焼き玉エンジン」は漁船ではまだ珍しかった。出漁の範囲は八丈島の付近まで広がり新漁場も発見した。
終戦後、十二代目の近藤三吉氏は「マッカサーライン」と呼ばれた日本への漁業区域制限の撤廃をみこし、インド洋など遠洋への進出に手を打つ。鋼鉄製の新鋭船を一九四七年に建造した。
五二年に読み通り制限撤廃となり、福一漁業はマグロはえ縄やカツオ漁などの遠洋漁業で成長軌道に乗る。五四年には魚を保存する冷凍機を開発し、船に搭載。長期の遠洋航海をするための知恵だった。
しかし、積極策は資金負担を増やし、リスクの増大とうらはらだ。水産資源を保護するための新たな規制が生まれるかもしれず、魚価の変動も激しい。
「漁場はリスクのかたまり」と、三吉氏の長男で九一年から社長を務める近藤一成氏はいう。「攻めの経営」の一方で、リスクを極力抑えることも、もう一方の軸に据えてきた。
七〇年代に入り海外巻き網漁業に進出した際、最初は中古の巻き網漁船を買って操業した。年間売上高が三十億円に達しなかった当時、八億円を投資して自前の巻き網船の新造に踏み切ったのは、中古船で手応えをつかんだからだった。
おりしも石油ショックで漁船の燃料価格は暴騰し、不況で魚価は低迷。漁獲の効率を上げる海外巻き網漁業への期待は高かったが、経営陣や当時巻き網進出の推進役だった近藤現社長はここでも慎重だった。新造船は最初の三年間、海洋水産資源開発センター(現水産総合研究センター)に雇われる形で、チャーター料をもらって南方の資源調査に従事した。巻き網漁業への本格進出は南方の漁場に水産資源が豊富にあることを確認してからだった。
「とるべきリスクはとり、排除すべきリスクは排除する」という姿勢は近藤社長が就任後、より鮮明だ。原魚を冷凍、加工する大型施設を建設。さらに水産物を料理店や消費者に直接売る量販施設を焼津市や静岡市に設けた。「価格決定権を自ら握る」ためだ。一方、年間二億-五億円の赤字を出していた近海巻き網漁の二船団は廃止した。船団を抱え続けるリスクはとれないと判断し、合わせて十隻、百二十人を減らす大なたを振るった。現在、ビジネスホテル子会社などを除いた福一漁業単体の年間売上高は二百億円あり、このうち漁労部門が六十億、販売部門は百四十億を占める。「攻め」と撤退の両面作戦で事業構造をがらりと変えた。
世界的なカツオやマグロの需要増を受け、積載量が千二百トンと業界最大級の巻き網漁船を建造、三月に完成した。連続操業で燃料費も抑えられる。建造費は二十三億円かかったが、そこは計算ずく。「リスクと向き合う経営」は今また、新たな船出をしたところだ。